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【免疫力UP情報】マクロビオティックの原点を探る①

【免疫力UP情報】
過去のむすび誌や正食出版発行書籍から抜粋してご紹介致します。
第29弾は「むすび誌2018年1月号」より特集「新たなむすび直しのへ」の中からマクロビオティックの原点を探るの記事をご紹介します。(全4回)。
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食育・食養を説いた石塚左玄
正食(マクロビオティック)を創始したのは桜沢如一氏(1893~1966)ですが、その誕生の背景には、日本の伝統食を見直そうという「食養生」の流れがありました。江戸後期に活躍した貝原益軒や安藤昌益、水野南北らがその担い手ですが、マクロビオティックに直接つながる出発点となったのは、明治時代の軍医、石塚左玄(1851~1909)です。日本で初めて「食育」という言葉を使い、食養道を説いた左玄の功績を振り返って、マクロビオティックの原点を再確認したいと思います。

 

病身ながら平均寿命を上回る

 左玄は江戸時代末期の嘉永4年(1851年)、福井市の町医師の長男として生まれました。

 福井藩医学校で勉強に励んだ後に上京、薬剤師や医師の資格を取得し、明治7年(1874年)、23歳のときに軍医試補として採用されました。

 西南戦争や日清戦争に従軍したこともありますが、腎臓病を患ったために明治29年(1896年)に陸軍少将薬剤監の予備役となり、退役しました。

 若いときからの皮膚病にも悩まされていた左玄は、早くから食に注目し、退役後に東京・市谷に設けた診療所「石塚食療所」では、望診法を使った診察と食指導による治療に専念しました。

 診療所は多くの患者でにぎわい、左玄は食医としてしたわれました。

 明治42年(1909年)、病身を押して講演に赴いた静岡で倒れ、寝たきりとなって、最後は尿毒症のために帰らぬ人となりました。

 亡くなったときは58歳。現代からいえばまだ若いという印象ですが、男性で42歳だった当時の平均寿命と比べるとかなり上回っています。病魔に冒されていなければ、もっと長生きしたかもしれません。

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食育の大切さ踏まえた基本法

 2009年1~12月号の本誌連載をまとめた『食養の祖 石塚左玄物語』(正食協会刊)で、左玄と同じ福井市出身の著者、岩佐勢市さんは、左玄の功績について以下の3つを挙げています。

 ①「食育」という言葉を初めて使用左玄は、食物に関する研究を明治20年代に発表し始め、それらをまとめて、陸軍を退役した明治29年に学術書『化学的食養長寿論』を発表しました。同書で初めて「食育」という言葉が登場しました。

 当時、イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(1820~1903)の「知育・徳育・体育」という三育論が広く知られていましたが、左玄はこれに「食育」を加えただけでなく、食育がすべての教育の基本であると説いたのです。

 さらにその食育は、親が家庭で行うべきもの、ともしました。

 また、左玄と同時代の人気作家だった村井弦斎(1864~1927)が、ベストセラーとなった啓蒙(もう)小説『食(くい)道(どう)楽(らく)』で「食育」を使ったことでもさらに広まりました。

 そうして息づいてきた「食育」に改めてスポットライトが当たり、平成17年の食育基本法制定に結実したことは、ご承知のとおりです。

 食育基本法でも、左玄の考えを採用して、「食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付ける」と明記されています。



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  • 2023年08月31日 11時10分更新
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